<アスガルド 神の巫女>

第一幕

第五章 ミルレスの町の神官



第十二話 湖の乙女


「はああっ!」
ぱんっ!
薪が軽やかな音を立てて、四方に割れた。
本を読破し終えた俺は、残り少なくなっていた薪を利用してモンクヒットの実践をしてみていた。
今のはなかなかいい感じに技が繰り出せたな。
よしっ、もう一回っ!
モンクヒットのコツを掴むため、残り少ない薪を有効的に使う。
ぱしぃんっ!
意識をして技を繰り出した。
綺麗に割れた薪を見て、俺は思わず『よっし』と呟いた。
どんなものにも急所というものはある。
急所を付くことで戦いを有利にし、それによって技の命中を格段にあげる。
それがモンクヒットだと俺はそう解釈した。
だから、その相手の急所をすばやく捉えて戦うことで、自分に対しての攻撃を最小限にすませ、戦いを早く終わらせるようにする。
そんな戦いの仕方もあるのだとこの本に教えられた。
全ては、まとめてあった紙を見て、俺なりに考えた結果なのだが、あの紙がなかったら、多分、こんな短時間で技を覚えられてはいなかっただろう…
「ルセルさんってすごい人なんだ…」
ルセルさん…本当に博識だ。
そんな博識なルセルさんから貰った手紙…中身は何が書かれているんだろう…
地面の上に置いた本の、その上に置いておいた手紙を見つめた。そして近寄って手に取ってみる。
モンクヒットを覚えれば開けてもいいと言われたその手紙。
覚えたんだから…良いよな?
心の中でそう言うと、俺はそっと手紙を封を開け、中から紙を取り出した。
何が書かれているんだろう…もしかして、モンクヒットについてもっと重要なことが書かれているとか?!
期待しながら読んでみると、その文面は俺の思っていたこととは全く違った。
そこには、こんなことが書かれていたのだ。
“ルゼは家の裏の位置にある湖で修行中。気づかれないようにそおっと覗いてみると良いよ。
勉強になるはずだから。得するよ。”
勉強?得?
モンクヒットの勉強…とか?
俺は頭の中に疑問符を何個も浮かべて、もう一度手紙の文面を見やった。
でも、いくら読んでみても
『ルゼが修行しているのをジルコンも見たほうがいい』
という意味にしか捉えられない。
でも何故、気づかれないようにしなければならないのかが謎だ…でもルセルさんのいうことだから、きっと、今後覚える技の何か手がかりにでもなるんだろう。
場所は…家の裏か。ここは家の正面から少し離れた、木がうっそうと茂っている場所だから…真逆の位置だな。
日は少しだけ暮れかけていたが、とりあえず俺はルゼルの居るらしい場所へと向かうことにした。


この森へはルセルさんに連れてきてもらったようなものだし、来た後に家の外を散策したわけではないから、どこに何があるのかよくは知らない。
だからこんな湖が近くにあったなんて、思いもしなかった。
スオミのミニュ湖みたいな、あんな大きな湖ではなかったが、大きさを言えば…50人くらいの人が集まって手を繋いでやっと一蹴できるかなといえるくらいの大きさと言えばわかるだろうか…
そんな広さの湖だった。
ミルレスの町の裏、街道からは真逆のこの位置に家があるって言うのも驚きだったけれど、そんな場所に湖があるなんて…
驚きつつ湖のほとりまで歩きつくと、今自分が立っている場所から反対側の岸に場所に人の姿が見えた。
あそこにいるのはルゼルだよな…
そっとルゼルに気づかれないよう、足音も気配も消して歩く。
ルセルさんの手紙に書いてあったからという理由もあるが、神経を集中しているだろうルゼルの気をそらしては邪魔になるだろうから。
そっと、そっと。着実にルゼルの居る場所に近づく。
そして木の陰に隠れたところについた俺は、ルゼルのいる場所をまじまじと見て−−−気が付いた。
ルセルさんから貰った服ではなく、いつもの男物の魔術師の服をまとったルゼルは、湖にいる。
だがそれは湖の岸ではなく、なんと湖の水の中に入っていたのだ。
多分冷たいだろう湖の水に腰まで浸かり、じっと目を瞑って瞑想しているルゼル。
手は胸の前で祈るように組み、唇はかすかに何か呪文を呟いているようだった。
この頃少し寒くなってきたような、そんな気候の中、今ルゼルは寒くないんだろうか…?
大丈夫なのか…?
そんな思いが俺の頭に浮かび、心配になってじっと見ていたが、今度はあることに気が付いてしまった。
ルゼルが水の中に入っている。
水に入ればびしょぬれになる。
ということは、今、ルゼルの服は濡れている。
胸の辺りまで濡れている服を身にまとって、ルゼルがそこに−−−
・。
・・・。
・・・・。
・・・・・。
・・・・・・・・・え〜っと…
俺の視線が泳いだ。
…ちょっと待て…
…この発想、どこかで一度やったことが…
そこで思い出したのはディグバンカーというダンジョンの入り口で、雨宿りをしたときのこと。
あ〜…あそこでこんな発想してたっけ…
あの時はルゼルが女だと思ってなかったから、こんなバカな考えが出てくるなんてどうかしてると、目がおかしくなったんだと、いろいろ理由付けてその場に寝たんだっけ…
…ディグバンカーのあの場所で、髪も服も濡れたルゼルが不思議そうに俺を見つめていた、あのときの視線を不意に思い出してしまう。
一度思い出してしまうと、どう思考を別のところへやろうとしても考え出されてしまう。
少し見えた体の線とか見つめる瞳とか…
あぁぁぁぁぁっ、何考えてるんだ!俺は…
『想像が過ぎる!』と、自分でも喝を入れたいくらいだ。
こういうのを“煩悩”というんだろうか…。
思って、軽く落ち込む。
…ルセルさん…もしかして…この姿を見せたかっただけとかじゃ…ないよなぁ…
昨日、ルゼルと俺をからかったルセルさんを思い出し、苦笑いを浮かべた。
本当にこれを見せるのが目的だったのかもしれないと思えて、しょうがなくなってきた。
とにかく、思考を通常に戻さないと…
と、俺はルゼルのいる方向とは逆の方へ向き、木々や光の指す方向を見やっていた。
せめてどこかで気づかれないように焚き火でも焚こうか…
思考が正常に戻ったなと自分でも思える発想がふいに出てきて、自分の中でほっとした。
そうだよ、ルゼル、寒そうにしていたし、そこらへんの枯れ木を集めてきて焚き火をすれば、湖から出たルゼルが寒くて風邪を引くこともないだろう。
そうしようと振り向いてルゼルを見た、その時だった。
その場で座り込んでいたらしいルゼルは立ち上がると、固く結んでいた両の手がそっと離れ、空を撫で仰ぐように掲げられた。
祈りを捧げる聖職者のような、鳥のように舞う吟遊詩人のような、流れる風のような、そんな優雅な体の動きに俺はじっと見とれてしまう。
そしてその手をそっと自分の前に突き出す。
ルゼルの唇がひそかに動いた。
「アイス…スパイラル」
ルゼルの手元から現れた光が螺旋状にふわりと絡むと、丁度落ちてきていた木の葉を巻き込んだ。
かしぃぃん…
木の葉が何かに切り裂かれ、散り散りになって湖に舞い落ちた。
それと同時に冷えた空気が俺の傍まで届く。
それを見とどけたルゼルはすうっと手を下ろし、肩でふうっとため息をつく。
その顔は晴れやかだった。
これは、スペルをしっかり覚えられたっていう顔だな。
ルゼルの嬉しそうな顔につられて俺もうんうんと笑みを浮かべながら見ていると、ルゼルは肩をぶるりと震わせた。
あ、寒くなったんだ…
「ルゼルっ」
「え?」
心配になって思わずルゼルの名を呼ぶと、ルゼルは思っても見なかったんだろう。きょとんとした顔で俺を見て−−−
はっと気が付き、湖の中で器用に後ろを向いた。
「ルゼル、大丈夫か?」
「えっ…えぇ…はいぃっ…大丈夫です〜っ…」
いつもより高いようなルゼルの声。
そこではっと気が付いた。
俺は出てきちゃいけなかったんだ。
「ご、ごめんっ!ルゼルが寒そうにしていたから…」
「あ、す、すみません…」
おれもルゼルも謝りながら、背中合わせに立つ。
…前のディグバンカー入り口のときは、雨に濡れて少し体の線が見えるかなといった具合だったから、そんな気にもしなかったんだろうが、今のルゼルは水に濡れて体の線がしっかり見える状態。
いつもはスカートで見えない太ももの部分や、胸のあたりの線もしっかりと見えてしまっている…そんな状態の時に誰かに見られたら…恥ずかしがらないわけがない。
迂闊だった…。
と、とにかく…何か隠すもの…
自分の肩に巻いている布と腰に巻いていた布を外し、後ろを向いたまま、ルゼルの居る後ろ方向へ差し出した。
「ルゼル、とにかく家に帰るまでこの布を使っていいから。
これで体を拭くなり、羽織るなりすれば、寒いのは少しは和らぐし。」
「え、あの…いいんですか?濡れちゃいますけど…」
「あぁ、構わない」
俺は後ろを向いたままでいるからルゼルがどんな顔をしているかは分からない。でも、とにかく今のままだとルゼルが風邪を引いてしまうのは必至だった。
「すみません…」
ルゼルはそう言った。
ばしゃっと水の音が聞こえる。
どうやらルゼルが湖から出たらしい。
水が大地へと大量に流れ落ちる音が聞こえる。
多分、ルゼルが服が吸った水分を少しでも少なくしようと、絞り落としているんだろう。
そしてその水の音がなくなると、差し出していた俺の手の中にあった布の重さがふいになくなった。ルゼルが受け取ってくれたようだ。
小さな声で『ありがとうございます』と言うルゼルの声が聞こえた。
「でも…どうしてここへ?ジルさんも修行しているってルセルが言ってましたが…?」
「あ、あぁ、一応習得したから、あたりを散歩していたんだ」
と嘘をつく。本当はルセルさんの手紙につられてここに来たわけだが、兄妹喧嘩の火種になりそうだし、そこは言わないでおくことにした。
と、そんなことを思っている俺に気づかないで、ルゼルから嬉しそうな声を上げた。
「今日一日で覚えるなんてすごいですね!
修道士のスキルとかスペルとかって、コツを覚えるのが大変だって聞きましたけど?」
「いや…
ルセルさんがところどころまとめておいてくれた紙が挟んであったからこそ、一日で出来るようになったんだよ。
それがなかったら、一週間くらいモンクヒットの練習してたかもしれない…」
言って、本当にルセルさんのあのまとめた紙がなければ絶対そうだったかもしれないと再認識する。
ほんと、あの紙があったお陰で、スムーズに覚えることが出来た。
俺の師匠だと、『そんな甘いやりかたで覚えるなんて邪道!』とか言いそうだけど…
「そういえばルゼルが覚えていたのはアイス…あっとごめん」
「あ、いえ、大丈夫ですからこっち向いてもらっても構いませんよ」
思わず振り向きそうになって謝ると、ルゼルが気にしていないといった声で言った。
大丈夫かな…と恐る恐る振り向いてみると、ルゼルは俺が渡した赤い布を、俺がいつも付けているように肩に巻き、端のところを垂らして胸が隠れるようにしていた。
腰のところは、まるで巻きスカートみたいにくるりと巻いている。
ぼそりと一言『まじまじと見ないで下さいね…?』と恥ずかしそうに笑う。
言われて思わず視線が泳ぐ俺。
「じゃあ家に帰りましょうか。いいですか?ジルさん」
「あ、あぁ、いいよ。そういえばルロクスはまだスペルの練習中かな。玄関前にいるみたいだったけど」
「あぁ、ルセルがそう言ってましたよ。
『ルロクスくんは玄関前に居るけど、ちょっかいかけたらダメだよ。
 集中力をなくしちゃうだろうからね。』
って。」
「集中かぁ」
「魔術師はスペル詠唱と敵と両方を集中して、なおかつスペル詠唱の呪文と言うか、
言葉と言うか想いと言うか…そういうものが必要なので。
難易度の高いスペルというのはその言葉と想いが重要ですから。」
「へえ〜…よくよく考えれば、修道士も覚えるときはそんな感じかもしれないなあ…」
「どの職種だっておんなじだとは思いますよ。
でも、魔術師は物を破壊するような力が基本ですから…
本当に集中しないと、自分が壊れちゃうこともあるらしいです。」
壊れる。
その言葉を聞いて、昔、子供の頃に聞いたお話を思い出した。
とても強い魔術師が、まだまだ成長していく少年の魔術師に向かって言った言葉。
“自分の力を見極めてスペルを打つことが大切だ。
 自分の力以上のスペルを扱おうとすれば、
 力に負けて己を無くし、壊してしまうぞ?”
子供心に“スペルとは怖いものなんだ”と心に刻んだ記憶がある。
「やっぱり魔術師は大変なんだな…」
「修道士さんだって大変でしょう?力と体力、技と3つの要素が必要なんですから」
ルゼルは笑って言いながら、少し身震いをした。
そういえば、もう気候は寒い時期に入りつつある。
「こんな寒い時期に湖に入るほうが大変だろう?スペルのためとはいえ、ご苦労様だったね」
「いえ…違うんです…僕が自分で入ったわけじゃないんです」
これ以上寒さをどうしてあげることも出来ず、俺は労いの言葉をかけてやると、ルゼルはなぜか微妙な顔を見せた。
怒っているような顔…
…まさか…
「ルセルが僕を突き落としたんです…
『精神集中するなら、水の中が一番!』とか言って…」
げんなりとした顔を見せるルゼル。
…ルセルさん…こんな時期に湖に落とすなんて…
「初めは暖かな水だったんですけど…何度かスペルの失敗をして湖の中でよくわからない形で発動しちゃったり…
で、最終的には、氷水になってました…」
…そういえば、今回、ルゼルが覚えていたスペルはアイススパイラルだったっけ…
水系…というより氷のスペルだったっけか…?
「ひどいと思いませんか…」
「ひどいな…」
ルセルさん…絶対このこと予想できていたはずだ…
俺の頭の中でルセルさんが『けけけっ』と面白そうに俺たちをみて笑っている。そんな姿が一瞬、見えたような気がした…